2018年07月26日

作品(2)   吉野 克

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posted by 管理人 at 20:52| 吉野 克

2018年06月08日

2018年05月01日

月浦森林自然公園のヒッコリーの謎を追って・・森ネット理事 吉野克

月浦森林自然公園とヒッコリーの実

十一月の初旬、洞爺湖町の月浦森林自然公園を散策した。広葉樹はすでに葉を落とし、散策路は落ち葉に埋もれ、歩くたびにカサカサという音が心地好く身体にしみこんでくる。しばらく行くとクルミのような青黒い丸い殻果とその中の種らしき白い実が落ち葉の中から顔をだしているのが目に入った。丸い殻果は四つに割れて口を開いていた。

クルミでもなくトチノミでもなく、今まで見た事もない実であり、何の実か知りたくなり、洞爺湖ビジターセンター等に聞いてみるもわからず、植物に詳しい方にたずねようやく「ヒッコリーの実」と言う事がわかった。
月浦森林自然公園 ヒッコリーの実

ヒッコリーは北アメリカ原産のクルミ科の冷涼な気候を好む落葉高木で、日本には明治時代の中期に日本に渡来しています。殻果は球形または楕円形で、直径3.5〜6cm、で4裂する。核は楕円形で乳白色、殻は堅く下端はとがり上端には花柱の痕跡を残している。心材はスキーの板や家具材、車輌、ゴルフ用材、等に使われる。 月浦森林自然公園には北海道には自生しない樹木がみられ、ヒッコリーの他、ヨーロッパカラマツ、アカマツなどがある。

初めて拾ったヒッコリーの実に魅せられ、ヒッコリーはどのようにしてこの地に植栽されたのか知りたく、洞爺湖町史、月浦百年の歩み等の書物を開くも記載なく、地区の自治会長さんや古くからお住まいの地元の方を訪ね、その他洞爺湖町、環境省洞爺湖ビジターセンター、室蘭法務局、加えて愛媛県博物館や大洲市立博物館、北海道大学付属植物園、インターネットの情報などと心当たるところから調べ始めました。月浦森林自然公園 ヒッコリーの実

ヒッコリーの実

(1) 月浦森林自然公園とはどういうところか?

月浦地区の開拓は、明治24年伊予国(現在の愛媛県)大州藩最後の藩主・加藤泰秋 子爵により始まり、後に香川県から23戸の入植により開拓に着手しました。 加藤子爵は月浦に173町歩の払い下げをうけ、後に仲洞爺300町歩、留寿都大原 400町歩の払い下げもあり、当初アメリカ式大規模農場経営をめざした。加藤子爵は開拓に入ると同時に別邸を建て、折々に月浦にきて農地支配人などと開拓の進歩や大規模農場経営をめざしたが、冷害や病害虫等により、作物の収穫も思う様 にはかどらず、明治43年の有珠山噴火による降灰の被害、戦争の影響も受け苦しい経営を余儀なくされ、大正15年81歳で死去した。

農場経営は残された者が引継ぎ、 昭和12年国の施策もあいまって農地解放し、小作農制から自作農制へと変革された。その後の変遷の中で別荘は人手に渡りながらもありつづけますが2000年の有珠山噴火や老朽化もあって取り壊され、2001年にこの土地を洞爺湖町が購入し、2009年に散策路や別邸をイメージした休憩所を整備し森林公園としました。


・・・ 明治42年頃の加藤子爵別邸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治42年頃の加藤子爵別邸 月浦森林自然公園 月浦森林自然公園 お屋敷跡休憩所
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お屋敷跡休憩所 ・・・・・

 

(2) ヒッコリーがどの様な経緯で月浦森林自然公園に植栽されたか?

まず最初の仮説として加藤子爵が郷里の愛媛県から愛着があり故郷の樹として持ってきて植栽したのではなかろうか?と考えました。 そこで愛媛県県立博物館へ “愛媛県にヒッコリーの樹の自生はあるか?”尋ねてみましたが、聞いた事がないとの回答でした。

次に加藤子爵の出身地の大洲市立博物館の方へ“加藤子爵の北海道に関する資料がないか?”問い合わせましたが見当たらないが、加藤子爵の長男の泰治がカナダやアメリカに留学し、後に札幌農学校(現・北海道大学)の獣医学講師になっており、虻田 地区月浦の地のヒッコリーの樹の植栽に関連の可能性があるのではないだろうか? とのご教示をいただきました。

そこで北海道大学付属植物園に“貴植物園にヒッコリーの樹が植えられているか?” 尋ねたところ“植栽されている”との回答を得ました 更に“ヒッコリーの樹がいつ頃どのような経路で植えられたのか?”について照会しました。

一方、月浦地区の自治会長さんを尋ねたおり森林公園に隣接して古くからお住まいの方(秋山 氏)を紹介していだき、この方は記憶をたどりながら色々とお話を聞かせていただきました。この話のなかで加藤子爵のお屋敷一帯が子爵亡き数年後、時期は不明だがこの土地をカラカミ観光(株)が購入し管理人(武田信義)をおき、建材に適する大樹を伐採し製材販売し、その後この土地は札幌市の芳賀スキー(株)に転売され、更に帝国観光 (株)へ転売、そして平成元年に東京都のワタエイ(株)に転売され、2001年に 洞爺湖町が購入し、住民の憩いの公園として整備し、加藤子爵のお屋敷に模して休憩所が作くられ現在に至っている事がわかりました。この中で芳賀スキー(株)が一時所有していた事に着目しました。それはヒッコリーについて調べたおり、この樹がスキー板の材料として使われたと言う記述があり、これがヒントとなりました。 そこで芳賀スキー(株)について調べはじめ、以下の事にたどりつきました。

(3)芳賀スキー(株)とはどんな会社か?

大正5年、芳賀スキーの創設者となる芳賀藤左衛門さんが福島県より新天地を求め、北海道東倶知安村(現・京極町)に入植し、開拓のかたわら当初は荷車や馬車の製造 販売を始めました。

会社は大正15年に札幌に拠点を移しました。当初は札幌郡藻岩村字円山(現在の円 山)に工場と事務所を構え、後の昭和8年に桑園に新たに工場を建てました。 当時はスキー板の木材をヨーロッパからクルミ科のヒッコリー材を輸入していました。

昭和15年に札幌で冬期オリンピックが開催される事が決まり、市民の間でもスキー熱が盛んになりました。(後に戦争のためオリンピックは中止となった) 昭和16年に戦争が始まり、陸軍からもスキーの注文も受けたりしましたが、従業員も次々に出征していき、生産も縮小していき、昭和19年には一家は購入していた 田町(現・洞爺湖町)月浦の地の別荘に疎開しました。

昭和22年になって出征していた従業員が帰ってき工場が復活していきました。しかし、戦前なら可能だったヒッコリー材の輸入がままならずスキーの製造も低調でした。

昭和24年、全日本スキー選手権大会が国民体育大会冬季大会を兼ねて札幌市で開催され、三笠宮殿下、高松宮殿下がご臨席され、その際芳賀スキー工場を訪れました。 その際、会社は戦後第1号のヒッコリー材の合板スキーを献上しました。(戦後、ヒッコリー材の輸入はままならず大変貴重になっていました)

昭和36年に東京・中部・関西への販売強化を目指して神奈川県茅ヶ崎に新工場を建設し、バルカナイズファイバーと言う素材を使ってグラスファイバースキーを開発し、これは科学技術庁長官賞を受賞しています。これらから、アメリカ・カナダ・ドイツ・フランス・スイス・イタリアなどへのグラスファイバースキーへの輸出は伸びていきました。そして更なる生産規模拡大と高度な技術開発部門を立ち上げるべく札幌スキー協同組合との協同事業として羊蹄山麓の真狩村に新工場を新設しました。

昭和47年の札幌冬季オリンピックの開催などでスキーの販売は伸びていったが、その後の円高とオイルショックによるインフレで大きな打撃を受け、輸入材の高騰とインフレによる賃金高騰で日本の輸出スキーは完全に競争力を失っていった。 札幌オリンピックの後、手軽な市民スポーツとして「歩くスキー」が普及していきマーケットとして一定の規模をもっていった一方、スポーツ用品の販売業界にも変革がおこり、大手全国チェーンの販売網が広がり中小スポーツ店を次々に倒産に追い込んでいきました。真狩工場は5社が倒産し、芳賀スキー一社の経営となり、従業員の配置転換や削減が 不可欠となり、平成3年倒産となってしまいました。

(4) “ヒッコリーがどの様な経緯で月浦森林自然公園に植えられてたのか?”と言う疑問が解けた経過

その後、資料を探していたおり、10年ほど前に北海道地方環境事務所が主催して『洞爺湖の湖畔林散策会開催報告」の資料を入手しました。その中に実施地は月浦森林自然公園他でヒッコリーの樹の記述があり、講師は胆振森づくりセンター所長とありました。早速連絡をとりましたが、この方は元北海道林務部の職員で以下の事がわかりました。

『1977年(昭和52年)有珠山の大噴火で火山灰等の降灰で様々の被害がでたが、森林被害について北海道大学の専門家が中心となって虻田町(現洞爺湖町)を中心に調査が実施され、その折月浦地区の調査のなかで北海道大学の専門家から「芳賀スキー(株)が戦前にこの別荘、及び周辺の土地を購入し、別荘の管理人(長谷山 氏)が戦後ヒッコリー材の輸入が少なくなっていった中で、昭和30年代に会社のスキー「製作の材料であるヒッコリー樹の苗木を取り寄せ、この地に植栽し、他にも同じくスキー材になるテウチグルミなども植えた」と言う説明』を受けたとの事でした。何故北海道大学の専門家が芳賀スキーの動向を入手していたかについては、芳賀スキーは長く北海道大学スキー部の指定店になっており関係が深かった事などから情報を入手していたのではと思われる。

(5)まとめと感想

ここに至って「北米原産のヒッコリーの樹がどのような経緯で月浦森林自然公園に植えられたのか?」という私の疑問の回答にたどりつく事が出来ました。

当時は日本を代表するスキーメーカーの一つであった芳賀スキー会社の歴史の影で、その形見としてこの地に根づき、秋にはたくさんの実をつける。「月浦森林自然公園には2〜3本のヒッコリーの樹があるそうです。 さて、加藤子爵の別邸も老朽化し2000年(平成12年)の有珠山噴火の頃まであったが解体、撤去された。翌年の2001年(平成13年)に亡田町(洞爺湖町)がこの地を購入し、2009年(平成21年)に公園の散策者や地域住民の憩いの施設として、別邸をイメージして現在の休憩所が建てられました。また、明治33年には 「加藤子爵の故郷の愛媛県大村の八幡神社より分社された琴平神社の建立(後に改築され月浦八幡神社)と、地元の神田しし舞いが奉納され、月浦しし舞いとして今日まで「続いています。」

先祖が月浦森林自然公園の隣地で農業をされていた秋山氏の記憶によると別邸を中心として周辺は芝生が張られ、郷里(愛媛県)より持ってきた牡丹がたくさん植えられ、別邸の斜面にはリンゴの木が植えられていたそうです。また小さな池(現在はない)も二つありたくさんの金魚が泳いでいたそうです。

現在、月浦森林自然公園は散策路も整備され、小川や池、湿地、樹木や野の花、昆虫に小鳥たち、エゾサンショウオ、ニホンザリガニ、エゾリス等メニューも富み、この自然を守り後世に伝えていきたい自然の財産である思いを強くした秋の一ページであった。

参考文献

・洞爺湖町史(洞爺湖町)

・「月浦百年の歩み」(平成8年刊月浦百年の歩み実行委員会)

・世界大百科辞典 (平凡社) 。

・サイト「ミニ大通レターズ」(2018.1)

☆協力いただいた方、機関

・洞爺湖町

・洞爺湖町図書館

・環境省 洞爺湖ビジターセンター

・愛媛県立博物館 「愛媛県大洲市博物館

・北海道大学付属植物園

・北海道地方環境事務所

・胆振森づくりセンター長 様

・月浦地区 秋山樣

?伊達市 木村樣

posted by 管理人 at 11:54| 吉野 克
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