1.何はともあれクルミ、くるみ
その16:くるみ拾いのきっかけ〜B「持去り・廃棄」と「餌やり」の関連性
しばらく間が開いてしまいました。前回、前々回と園内のくるみが失われてしまう理由をお話しました。来園者の持去りと芝刈・清掃により、何も手を打たないでいると殆どのくるみが無くなってしまうこと。そしてその対策として個人的にくるみを拾い野草園に移動もしくは一時保管する活動をしていることもお伝えしました。
(2014年には園内に持去防止の掲示があった。面白いことに、りすたちはしばしば熱心に掲示物に見入っていた。ヒトも同じくらい注意して見てくれると有難いのだが・・・)
しかし、私はいつもジレンマを感じてしまうのです。くるみを拾ってまた戻すという行為は、いつも問題視している餌やりと同じことではないかと。冬場に、りすたちの食べ物が無いと思ってヒマ種などを置いていく人と何も変わらないのではないかと。自問自答してもすっきりした答えを見出せません。かといって何もせずにりすたちの食料が不足するのが一番困るので、モヤモヤしつつもくるみ拾いを継続しているわけです。
「持去り・廃棄」と「餌やり」は一見全く別の事柄のように思えますが、上記のように考えると相関関係が成り立ちそうです。簡単に言えば、持去り・廃棄が餌やりを誘発する理由(言い訳?)になってしまうということです。これは大事なことですが、餌やりをやめようと呼びかけるのなら、まずもって持去り・廃棄の改善が必要なのです。これらはセットで対策を行われなければ意味を成しません。
(2017年、アヤメ川公園に設置された野鳥・リス大看板の一部。アヤメ川ではくるみの廃棄は無いが、持去りと餌やり防止はセットで呼びかけている。記念館は現在、注意書きの類は掲示できない。)
ずいぶん前ですが、くるみを拾っていると、とある公務員の方に「そこまでしなくても、自然のままが一番良いのではないですか」と言われたことがあります。・・・確かに!ごもっともです。自然のままにしておけるなら、りすたちにとっても、この軟弱なくるみ番にとっても、一番良いし有難いのです。でも、自然のままって何ですか?人為的にくるみを廃棄している環境が「自然のまま」? いかにも耳あたりよいフレーズですが、結局は「成り行きに任せろ、余計なことはするな」というように解釈できます。これは少なからずショックでした。
こうなるともう乗りかかった船です。自分なりに次のようにモヤモヤに決着をつけることにしました。
人為的にくるみが片付けられる環境では、人為的なくるみの確保も致し方ない。それが本来の「自然」の姿に戻すための行動と考えることにする。
そして拾ったくるみを戻す時ですが、気をつけていることがあります。自分なりに不適切な「餌やり」との境界線を引く努力です。
- できるだけ自然落果に近い形で戻す。例えばくるみの木の近くに重点的に撒布するなど。
- ヒトの手によってくるみが置かれていることを、できるだけりすたちに悟られないようにする。りすの目の前でくるみを撒かない。
- ヒトの手によってくるみが置かれていることを、できるだけヒトにも悟られないようにする。記念館はヒトが餌を与えて良い場所だ、という誤解を生じさせない。
- たまたま作業を目にする来訪者に、趣旨を正しく理解してもらえるよう努める(くるみ拾いカゴに掲示など)。
- 原則として園外で実ったくるみを持ち込まない(別の場所で持去りをしていることになる。そこで困るリスがいる。植生にも影響する)。
これで十分とはいえないかもしれませんが、「自然に戻すための行為」として必要な配慮と考えます。
これで私のモヤモヤはなんとな〜く片付いたことにしますが、もうひとつ気がかりなことがあります。それは個人的な活動は長期継続できるものではないということです。私のくるみ拾いはあくまでも急場凌ぎで、根本的解決には、代が変わってもずっと続けていけるような【仕組み】づくりが必要です。その仕組みとは、先ほど書いたように持去り・廃棄から餌やりへという喜ばしくない連鎖を断ち切るものでなくてはなりません。これは個人の思いだけではハードルが高く、行政や市民の理解と協力をいただきたいところです。ちょっとの工夫と労力、考え方の転換で、りすたちがハッピーに暮らせ、それを眺める私たちもハッピーになれるなら、そんな良いことはないと思うのですけれど・・・。皆さんはどのようにお考えですか。
(野草園に堆積した深い落ち葉の中からくるみを掘り当てご満悦。見ている方もヨッシャ!という気分になる。)